ねえねえ知ってた? 平成十九年七月 |
平成19年7月28日(土)
夏休みは、子どもの宿題に頭悩まされますね。感想文ちゃんと書けるかしら?工作は何にしよう?とかね。最近、一日が過ぎるのが早いですからねえ。ウカウカしていると、あっと言う間に夏休みが終わってしまいます。 今日は本棚の整理をしていて、私が小学校2年生の夏休みに付けた自由勉強帳なるものを見つけました。A5の小さなノートに、漢字練習や計算、国語の本の書写やら感想文を綴ったものです。何々?「せいしょものがたりをよんで」・・子ども向けの聖書物語の感想が書いてあります。読み返している内、思わず吹き出してしまいました。落語並みにおもしろい!では、暑気払いに、ご縁のある皆様にも、一部ご披露することに致しましょう。仮名が多くて読みづらいでしょうが、そのまま書きますね。 大むかし、せかいはなかった。でもかみさまだけはいた。 (いらっしゃったと言いなさい!) 人げんやどうぶつや、しょくぶつは、かみさまがつくったけど、 かみさまは だれがつくったのかしら (言われてみればそうやね・・うーん誰やろ?) かみさまのつくった人げんを へびがそそのかしたから わるいなと おもった。 それにしても、へびが 人げんのことばをしゃべるなんて おかしい。 (この頃からツッコミは忘れてませんねえ) (省略) かみさまのいいつけを まもらないものが たくさんいるから かみさまは大水をおこそうとなさったので わたしは さんせいした (えらい正義感のあるコでんなあ。まあ、自分が生きてる時代やないから言えるんでしょ。) (省略) エジプトの王さまがゆめを見て そのゆめのとおりになることは さっぱりわからない (そうよ、世の中には不思議なことが一杯あるんだよ。) ふへい ということばがわからないけど もんく といういみだとわたしはおもう (国語辞典を引きなさいて。感想文に書くことやないでしょ!) ダビデは小さいのに 大男をたおしたことは えらい (まあ、一寸法師ほどではないけどね。) かみさまのいったことがかいてあるけど、かみさまは大きな 人にきこえるこえで いったのかな? (耳にではなく心に響いてくるんだよ。それからね、おっしゃったと言うんだよ!) (注)ここから、いよいよ新約聖書に入ります。 イエスさまが うまれるのに どのりょかんも とめてくれないなんてわるいな。 (ほんまにねえ、人を見る目がないわねえ。) あくまの 絵やいったことばが かいてあるけど あくまだから きたないかおで へんなこえだろうな。 (そうとは限らないよ。きれいな顔した悪魔もいるから気をつけるんだよ) イエスさまが水の上をあるいたことがかいてあるけど ほんとうにあるけるのかな? もし、あるけるのだったら わたしも一ど あるいてみたい (そうだね、氷の上なら歩けるのにね。) 五つのパンと二ひきのさかなしかないのに 五千人にくばれるかしら。 でも、かごにはいっぱい入っていた。ふしぎな かごだなあ。 (こんなことできたら どれだけ我が家の食費が助かるか!) 絵には イエスさまの手のひらに くぎがうってあった。セロテープだったらいいのに。 (ほんまにねえ。くぎで打つやなんて人のすることじゃないよねえ。) イエスさまがよみがえったので、おでしさんたちも よろこんだろうな (そら、嬉しかったやろねえ) ステパノは いくじなしだな。石をなげられても、じっとおがんでいるなんて。 わたしが そのとき いたら、たたかってやるのに。 (ごめんなさ〜い。ステファノ様の強い強い信仰心もわからず、何て失礼なことを・・) (以下、省略) 一部抜粋ですので、全部読みたい方は、お申し出くださいませ。それでは、珍解釈・聖書物語、これにてお開きに致します〜。 |
平成19年7月24日(火)
先日、大阪は堺市にある大泉緑地の蓮池を訪れてより、蓮の花が気になって仕方ない。自分で撮った写真をパソコンの背景に設定したものだから、否が応でも毎日毎時間、目に飛び込んでくる。そういう背景もあったせいだろうか。これまた、更新が遅れていて気になっていたこのコーナー。今回のテーマは思い切って『蓮の花』にしようと、数日前に決めてしまったのだ。当たり障り無く通り過ぎようと思っていたのに、とうとう「蓮」との深く長いつきあいが始まったようである。 実は、数ヶ月前から、母の墓標の隅を飾る蓮の花のデザインが決まらず困っていた。今思うに、単にお墓に合うからという理由で選んでいたからだろう。自分自身が、懐深く蓮の世界に飛び込む気など、更々なかったせいだと気付かされたのがここ数日のこと。勉強に子育て・介護・・時間に追われるように走り抜けてきた来し方に、蓮の花を愛でる余裕などなかった。もしかすると、その資格がなかったのかも知れない。それを思い知ったのも、ここ数日のこと。 それにしても、こんなにも長い時間、蓮と対峙したのは、生まれて初めてのことではないだろうか。そんな時間の中で、古来より人々がこの花とどう向き合ってきたのか・・この年齢になって追体験したい衝動にかられたのも、単に時間と心の余裕ができたためだけではなさそうである。 ということで、一カ月振りの不老具に綴るため、調査を開始。蓮の花に関するいろいろなサイトを開いている内、浄土真宗のHPに次のような文章を見つけた。 「年をとりたくない」と、いくら頑張っても、時間を止めることはできません。 「死にたくない」といくら願っても、必ず死んでいかねばなりません。 変えられないことを変えようとしている間、人は苦しみ続けなくてはならないのです。 実は、苦しみの元は「老」「病」「死」にあるのではなく、私の心の中にあるのです。 もし、苦しみの元だと感じて「老」「病」「死」を無くしてしまおうと試みることは、 蓮の花が泥の中にある自分の「根」を汚いからといって切ってしまうようなものなのです。 「根」を断ち切ってしまっては、花は美しく咲き誇ることはできませんし、やがて 枯れてしまいます。 お釈迦さまは、悩み苦しみの中に根を張ってしか生きていけない私たちのために、 「必ず仏の悟りの花を咲かせて見せるぞ」と働いてくださっている仏さまが いらっしゃる事を教えてくださいました。 「泥の池に咲く蓮のように、苦しみの中からあなたの花を見事に咲かせなさい」という仏教の教えは誰もが知っているだろう。インドでは最も神聖とされ、お釈迦様の誕生を告げるかのように、沐浴された池に咲いたと言われる花。けれども、蓮は釈迦の時代をはるかに遡る頃より、宗教的な崇拝の対象だったようだ。 たとえば、現在でもアジア諸国の国花となっているが、古代エジプトでも国の花に選ばれ、特別な地位にあったという。(ちなみに古代エジプトでは睡蓮を「ナイルの花嫁」と呼んで崇めていた)そして、ギリシャ、ペルシャ、インド、中国、朝鮮・・とシルクロードに沿って日本へと入ってきた歴史がある。それらのどの地域においても、宗教と結びつき、神聖な花としての地位を失わなかった事実。芸能界で女王の地位を維持するのに、いかほどの血と汗と涙が必要かを考えれば、すざまじい努力もせず、花の女王として君臨し続けた背景には、一体何が隠されているのか。知りたくなるのは私だけではないだろう。 まず、最初の手がかりとして見つけたのは、次のようなヒンズー教の神話である。 「原初に存在したのはただ水だけであった。そして、その水のなかからハスの花が浮かび上がってきた。神の、生命の元がまさに世界を生み出そうとした時、その宇宙の水は、大陽のように金色に光輝く千の花弁をもつハスを伸ばした。これは宇宙の扉・・・」(「タイッテリーヤ・ブラーフマナ」より) 蓮に宇宙を感じる・・と魅了され、創作活動を続ける人がいると聞いたことがある。「宇宙を感じる」とはどういう意味だろう?どうも蓮の形は、世界の成り立ちを示すマンダラに深い関わりがあるらしい。ひいては、その中に大宇宙を抱いているという「人の心」そのもののを表しているというのだ。あるHPには、次のような解説があった。 仏菩薩がハスの花の上に座っているのは、実はあるイメージがハスに転じたのである。仏像になくてはならない存在。マンダラのなかに描かれるべきして、描かれる存在。それが蓮であり、それは真実の相(心)に似ているからだ。(・・省略・・)蓮は直接マンダラ図版にもそれを見つけることができる。胎蔵界マンダラには、よく観察すると、主尊から四如来の間に、なにやら熊手のような不思議な物が描かれている。 金剛界マンダラでは結界の帯に描かれているのが、まさにそれだ。結界は城壁になぞられるている。仏菩薩をまもる働きがあるとされる。結界なくして仏菩薩もありえない。それほど結界は重要なものだ。実は、この結界は「蓮」なのである。チベットの金剛界マンダラの結界は、ほとんど墨色で描かれている。ある程度の太さをもっているが、とても細い。また、その細い幅の中間に、ある装飾物が描かれている。なんと驚くべきことに、三鈷杵(ドルジェ)である。三鈷杵がなぜ結界の帯の中に描かれるのだろうか。その理由は、結界が蓮華、そのものであることを明らかに示すためであろう。 もし、たんなる装飾であるならば、それはさまざまな文様でもっと多様に描かれたはずだ。ドルジェは通説では仏菩薩を守るインド古代の武器であるといわれている。が、それは武器ではなく「蓮華」なのである。 さて、ハスの茎も同時に重要な意味をもっている。茎も無視することができない。ハスの茎は神の手になり、十字架となる。十字は4仏対応と全く同じなのだ。 花の花弁が四仏を包み込んでいる。茎は主尊(中央)とそれぞれ繋がっている。 チベットマンダラでは、原初物と如来・菩薩が宗派によって入れ替わるものがある。中央に位置するばあい、どの仏であろうと法則に変わりはない。万物万象の、あらゆるオブジェクトは、三位一体である。このことは重要な意味をもってくる。なんと、万物の創造に深く刻印されている三位一体は蓮華によって成り立っていたのだ。蓮華には最奥の神秘が潜んでいた。蓮華は聖なる花として、教典に随所に書かれた。そればかりか、ハスの花は仏の周辺に描かれたり、また飾られるようになった。タイでは王宮の仏前に蓮の華がそなえられる。仏教国では神聖な華であり、蓮の花弁を内側に折り返して仏前に供える風習がある。蓮華は上から見ると、蓮の華芯はあたかもマンダラのようである。 ありありとイメージしてみよう。金色に光る美しい蓮のことを。それは、人間の心像なのだ。ようするに、このような概観をもつ蓮華(ハス)は、神の玉座の東洋的象徴となった。初めから神の形として最も神聖な存在として、蓮華は存在したのである。人間はそうした「神の像」と始まりもなく終わりもなく相似形だった。そうである以上、人間の本性もなにかの形を持っている。すなわち、蓮は人間の心の生き写しである。蓮華を観想することによって現れてくるものは、自分自身の心だといえよう。 段々、蓮の神秘性、その形に込められた理念に近づいてきた感がある。しかしマンダラに通じている人には、興味をそそられる内容だろうが、悲しいかな、高尚な哲学にはとんと縁のない私には、蓮の造形美を感性で受け止めるしか仕方ないようである。馬や鹿の首から背中、そして臀部へと至る流線に、特別な美意識を喚起される私。古来より、神の使いとなってきた動物は、どこから眺めても美しく創られている気がするのだ。同様に、蓮のつぼみのふくらみが描く曲線、開いた花弁の配置・・そこにも数学的な美しさが込められているのではないかと感じている。 しかし、自然はそれを淡々とやってのける。しかも毎年毎年・・桜や梅、そして蓮、小さなものも大きなものも、花々は同じ営みを繰り返し、時代を超えて人類の同伴者となってきた。その歴史の中で、数々の神話や民話も生まれた。ヒンズー教の神話では、創造の神ブラフマー・破壊の神シヴァ・維持の神ヴィシュヌの物語に蓮が登場する。ヴィシュヌのへそから蓮の花が伸び、そこにブラフマーが誕生し、ブラフマーの額からシヴァが生まれる・・という話である。時代がくだり、釈迦に教えを説くよう勧めた(梵天勧請)のも、このブラフマー。また、古代エジプトの神殿の柱や壁画、ギリシャ神話、更にはキリスト教のモチーフにも蓮が登場する。日本でも中将姫の物語を始め、各地の民話(山形県の蛙の坊さま等)にもよく登場するので、仏教を知らなければ、まるで日本の花であるかのような錯覚に陥ってしまう。 しかし、蓮は時代と地域、そして宗教を超えて、愛され崇められてきた花なのだ。それは、宇宙の雛形でもあり、人間の心を象徴する華として、当然と言えば当然のことなのだろう。 ![]() けれども、こと蓮の花に関しては、女性に・・というよりも、完成された人間に喩えた方がふさわしい気がする。ひとつの存在の中に、男性原理と女性原理をバランス良く併せ持ち、感性のみならず、理性と知性に裏打ちされた理想的な人間。願わくば、生涯かけて心を磨き、蓮の花を思い起こさせる女性になりたいものである。 唐の玄宗皇帝は「蓮の花の美しさも、言葉を解する花、わが楊貴妃には到底及ばない」と豪語したという。蓮の真価を見抜けなかった者には、やはり哀れな行く末が待っているのだろうか。 随分と長文になってしまったが、「蓮の花を究めることは宇宙の真理を究めることと同じ」なのだと、いろいろな資料を読みながら納得した今回の心の旅路。どうやら、終点にたどり着くには、まだまだ長い道のりが待ち受けているようだ。 <追記> 蓮の花が開く音を追った迫真のルポはこちらをどうぞ。こちらのサイトの写真集はお奨めです。左端の第1章から順にクリックすると小さな写真が表示されます。それらをクリックすると拡大します。きっとお疲れが癒されますよ。 |