ねえねえ知ってた? 平成20年4月 |
平成20年4月30日(水)
4月中に更新をと思っておりましたのに、お花見に浮かれていた街は、とうとう新緑の季節に・・けれども、4月から取り組み始めたということで、落語初演の舞台裏、そして「西行花伝」の感想を持って、4月分とさせていただきたく、ご容赦願えればと存じます。
4月13日に開かれたECC落語教室の発表会。演目は「大川桜」という自作自演の落語と相成りました。ちょうど2年前の4月13日に、大川(旧の淀川)沿いを散歩中、「桜の登場する落語が書きたい。」とふと思い立ち、近くの桜に向かって完成を祈ったのが、事の発端。それから数日後に、アイデアが沸いてきて、最初の原案を勉強会の仲間内で演じたのが、その数ヶ月後のことでした。 それ以来しばらく放っておいたのですが、昨年の10月から通い始めたECC落語教室で、練習する演目を決めないといけなくなりました。その発表の時期がちょうどお花見の頃と聞き、思い浮かんだのが「大川桜」。桂坊枝師匠に「自分の創った落語を演じてもいいですか?」と願い出ると、快諾をいただき、原案を大幅に変えた第2案を考えました。それから少しづつ覚えていったわけですが、毎回の師匠の表情を見ていると、決して厳しいことは言われないのですが、まだ改良の余地があるという気がしきりにしてきて、オチを変えた第3案を作成。場面展開がひとつ増え、マクラも入れると25分くらいかかる長編になってしまいました。1ヶ月ほど、それで練習していたのですが、演じている内に、もっとおもしろくしたいという気持ちになり、発表会の2週間前ではありますが、創造的破壊をして第4案を作りました。「折角第3案を覚えたのに・・」とか、「2週間で覚えられるだろうか?」という不安もありましたが、お客様のご満足が第一。ちょうど桜も咲き始めた頃、時折、大川沿いに出かけては、ぶつぶつと稽古をしたものでした。 台詞がおおよそ頭に入った頃に、気になり出したのが「本当に桜として演じているのか?桜と同化するほどの思い入れを持っているか?」ということ。ちょうど書評に載っていた「西行花伝」(辻邦生・谷崎潤一郎賞を受賞)を買い求めたのも、その悩みゆえ。私には、桜の気持ちはわからないかも知れないけれど、桜を心から愛された御方の気持ちは、少しなりとも理解したいという衝動にかられてのことでした。落語の中に、「願わくば 花の下にて春死なん この如月の望月のころ」という西行法師の和歌を入れさせていただいていましたし・・ けれども、読み進む内に、桜よりも西行法師その人に惹かれていった気がします。昨年夏に読んだ「国銅」(帚木蓬生)にも深く心を打たれましたが、「西行花伝」も又、運命の出会いのような本。円位上人とも呼ばれた御方の、この世界に向ける眼差しを余すことなく教えられました。 北面の武士として時の天皇に寵愛され、立身出世も約束されているのに、23歳で突然の出家。理由には諸説ありますが、ひとつには、このまま出世するなら、心から恋い慕う待賢門院璋子と敵対する立場に立つからという愛ゆえ。その勇気にも感動しましたが、男女の恋は時に、大自然への賛美、そして、それらをこの世にあらしめた偉大なる力への畏怖の念へと昇華する・・そのことを身をもって示された方が、たしかにこの日本に生きていた・・その痛快さに心を春風がさーっと吹き抜けた気持ちが致しました。そのすべてをご紹介することは出来ませんが、「西行花伝」の中で心に残った文章を、ここにいくつか転載させていただきます。 西行法師の言葉・・ 受け入れるとは、それを慈悲で包み、自分の中に同化することだ。錐で突き刺す苦痛も喜んで受け入れる。人に蔑まれる境涯でも心を弾ませて抱きとる。不可避の宿命として私は、むしろ貴さに心を満たされて迎え入れてゆく。六道輪廻のうちに在ることが御仏の慈悲であるからだ。人が生まれ、地上に在ることが、すでに慈悲の現れなのだ。老病死苦はすべて歓喜のなかで受け入れられなければならない。老病死苦の形をとってさえ、御仏は慈悲を現しておられるのだ。・・・地獄の火も餓鬼たちの責め苦も・・それがあるということが御仏の慈悲なのだ。(P374〜375) ひまもなく 炎(ほむら)のなかの苦しみも 心おこせば悟りにぞなる私は出羽の冷たい朝の空気の中で、山桜が、まるで白い花びらのひとつひとつを結晶(こお)らせたように咲いているのを見たとき、あたかもその桜の花全体が、鈴のように澄んだ音で、鳴り響いていると感じた。そのとき、私は思わず桜の花の前にひれ伏して、このような見事なものを創られた御仏に、ただ有り難さだけを感じた。(P403) たぐひなき 思いいではの 桜かな 薄紅の 花のにほひは私が桜の花だけではなく、文字通り森羅万象の懐かしさ、有り難さに心惹かれるようになったのは、それからのことであった。・・月も愛でた。道のべの花も愛でた。雨も雪も野も山も愛でた。だが、それは、そこに、そうした草木の形をした御仏の法身が横たわっていると思えたからだ。その木の梢で揺れている風は、風である以上に、御仏の微笑であった。それゆえに、私は梢の風を愛でたのである。(P406)そのとき、胸の奥底から、突然「この世がたまらなく愛しい」という叫びが悲鳴のように迸り出てきた。私の魂は物の怪に憑かれたように、この世の中に走り出ていた。私はもうそこに立っていることができなかった。桜の花の前に膝をつき、片手で上半身を支えながら、私は、白い光の泡立つ激流に洗われていた。その光の渦は、大地の奥から輝き、奔騰し、絶叫しながら、噴泉のように沸き上がると、恍惚とした銀の鈴に似た響きを立てながら、私を包んで駆け抜けていったのである(P408)私の修行とは、そうしたものの好さに、深く心を澄まして聞き入ることであった。すでに奥州の旅で、そのことを感じていたが、高野でいっそう私は、物の好さに聞き入るには、自分を出なければならないと感じた。自分を出るとは、最も深い意味で自分という家を出ることなのである。私たちは、知らぬうちに常に自分という家の中に住み籠もってしまう。その家を出る。真の意味の出家とは、この我という家を出、我執という家居を脱却することなのだ。我という家を出て軽々となった心は、物の好さの中に住む。花の色、月の色、夜明けの色の好さに共に住みなしてゆく。それはほとんど恋のときめきに似ていると言ったら、秋実は笑うであろうか。森羅万象の好さにこうして住みなすとは、その物の好さに心を同調(ともなり)させることだ。秋実、大事なのはこの点だ。物の好さに心が同調すると、心は元のままではなくなり、その好さの色に染まる。(P534〜535) 吉野山 こずゑの花を見し日より 心は身にもそはずなりにきこの歌の中で、私は、桜の美しさに惚れ惚れとした瞬間、心が我という薄暗い家などまっかく問題にせず、そこを離れて梢の花に同調しつつ、花の歓喜とひとつにときめいているのを表したかったのである。秋実によくよく思いを留めてほしいのは、この共鳴、同調(ともなり)するという点なのだ。心は、花の歓喜と一つになり、その歓喜と同じ調べで鳴り響くから、ありとあるものが浮かれ、踊り、快くはしゃぐのである。私は私でいて私ではない。私は「いかなりとても いかにかはせん」という境地へとただ酔い、のめりこみ、物狂ってゆく。生命がひたすら嬉しさに燃え上がるこの時こそ、仏性が純粋相(まったきすがた)で人間の中に現れた瞬間なのである。私たちはそのとき死が迫っていても死を恐れない。 ・ ・ 同調し、一つになるということ。それは心が変成し、笑いとなり、不安となり、また涙となることなのだ。秋実、このことを心を留めておくように。言葉の上で、ただ花が咲き、月が澄み、木の葉の散る山里が寂しいのではない。まず心が花の喜びに変成し、心が我を忘れて躍り上がるのだ。嬉しさに満たされるのである。また時に山里の寂しさに心はただ哀しくさめざめと泣くのである。ここには賢者風(さかしら)に冷たく心の動きを見る眼などない。あるのは、笑う心、泣く心だけだ。本当に全身全霊が桜の花の中にたち迷う。この「本当に」ということが大事なのだ。本当に変成し、桜になってしまう。物狂いとはこのことであり、このことを除いては、歌の心はないのである。(P537)若い頃からの友、寂然和尚(藤原頼業)の言葉・・・・西行が説いたのは、そのことだけともいえる。真に己を捨て、己が透明になるとき、己は花であり、月であり、山であり、海なのである。それは言葉で言うことではなく、全身で実際にそうなることなのであった。・・我を捨てると、仏法が透明な全身に満ちているのが分かる。もともと在った仏法が、がちがちの汚濁した霧のため、覆い隠されていたのである。仏法とは生命と言い直してもいい。だから、西行はその霧を晴らすことを勧める・・私が西行とともにいた日々、知ることのできた秘密といえば、ただひとつ−−この、我を捨て、この世の花と一つに溶けることだった。(p511)西行は美しく豊かな森羅万象を前にして「どうしてこんな素晴らしいものに胸を弾ませないのですか」と言っているにすぎないのだ。そのさりげなさ、その自然らしさが西行の仏法の根底ともいえる。私の場合は、この森羅万象の好さは有り難さとなってゆく。峰の松風も、谷川の音も、一すじの煙も、蔓に覆われる大原の里の門も、あまりの好さに胸が痛く疼くのである。(P512) ********************** 時は、平家物語にも描かれる平安末期。西行法師は平清盛とも若い頃からの友人だったようです。朝廷では陰謀が渦巻き、血なまぐさい戦乱の世の中に突入せんとしていた頃。そんな中で、世間を厭うて出家する人間なら他にも数多くいたことでしょう。けれども西行法師は、大自然に遊びながらも、同時に透徹した理性を持ち続けておられた方。その証拠は、出家の後も、不遇の身の上となられた崇徳院を精神的に支えたり、その方が巻き込まれることになる争乱を回避すべく、権力者に積極的に働きかけたり・・政局の動きと行く末を冷静に判断する目を持っていたことからもわかります。 けれども、卓越した理性を持ちつつも、自分という殻を破り、対象に限りなく同化してゆく能力もあられる方・・左脳と右脳、理性と感性、男性性と女性性のバランスの見事さには脱帽するのみです。 理性とは、科学する目とも言えます。けれどもそれは、対象を外から眺める態度を崩しません。もしかしたら、世紀の科学的な発見の裏には、対象への賛美、それを創られた方への畏敬の念、そして対象になりきった境地があるのかも知れませんが、ごく希なケースです。 理性とは又、道徳や秩序を守る働きとも言えます。けれども、北面の武士の頃、時の帝の中宮と一夜の契りを結ぶという、一見理性なき行動を取られました。まだ儒教の影響下にない大らかな時代だったとは言え、意外にも「西行花伝」には自己処罰の苦しみは描かれていません。それが少し不思議な気がしましたが、ふと、まだこの本に出会う数ヶ月前に心に響いてきた「あなたが理性と思っているのは、自我ではないのかな?」という言葉を思い出しました。なるほど、理性と自我は、似て異なるものなのかも知れません。とするなら、佐藤義清(のりきよ)という名で呼ばれていた時代に及んだ行為は「煩悩の発現(自我)ではなく、仏性の自然な発露(無我)」だったのでしょう。 生涯に渡って、西行法師が無限に滅しようとされたのは、自我であって理性ではなかったはずです。自我を捨て無我となった時には、理性を失ったかに見える言動さえ、ごく自然なこととなる・・花鳥風月に物狂う姿に止まらず、古の信仰者は皆、何らかの形でその姿を見せてくれているのではないかと思います。自らの生命や名誉、立場さえ、もはや眼中にはないというような行いを通して・・・なぜなら、イエス様や空海さまを始め、偉人たちの眼差しの先には、いつも同一の存在がいらっしゃったからでしょう。西洋では創造主、東洋では、たとえば久遠の仏陀と呼ばれた御方・・呼び名は変われども、太古の昔にこの世界を創り、連綿と営み続けてこられた偉大なる智慧の持ち主。美しい花やかわいい動物、創られたものに込められた、その御方の美意識や、それらをこの世にあらしめる技に深く打たれる時、感嘆の思いが、ある時は、その御方に全てを捧げる行為として現れ、そしてある時は「和歌」という小宇宙に閉じこめられて私たちに示されるのでしょう。 そして、その歌に接した者は、そこに凝縮されたエネルギーを解放し、全身に浴びてゆく・・そのためには、作者が思いを封じ込めるのに使ったであろう鍵と、同じ合い鍵を自分自身が持っている必要があります。それを持ち合わせていなければ、決してその扉は開かない・・人生は、そういう合い鍵を限りなく集めてゆく時間なのかも知れません。苦難でさえ、大切な鍵をいただくチャンス。そういうノルマのような冬の時代を経て、花が一斉に咲くように春が訪れ、それまでに得た鍵を使って次々に秘密の扉を開け、隙間からサーッと差し込む光を、喜びと共に受けてゆく・・苦難ばかりで終わる一生もなければ、悦楽ばかりで彩られる人生もなし。光と陰が見事に織りなす風景を楽しむ境地になりたいものだと思います。「西行花伝」を読み終えた今 「人生の旅人よ。あくせくばかりせず、 立ち止まって旅の風景を味わってみよ。」 という言葉が頁の向こう側から聞こえてくるような気が致します。 すべての迷いは最後は真如の月を見るためにあったのですものね (P291待賢門院璋子の言葉)道草を食うも善し。目的地さえ忘れなければ・・美しきものを愛でずして、旅を先に進めるべからず。単にこの世を無常としてではなく、光と美に溢れた世界として受け止める眼差しがあれば、環境問題も生じてこないのに・・と残念な気がしてなりません。自分たちのものだから好き勝手にしてよいというのではなく、私たちへの究極のホスピタリティがこの世界を生み出したという認識が、今ひとたび必要とされているのではないでしょうか。(参考)「西行花伝」のCD版(全4巻)も出ているようですよ。落語には「西行鼓ヶ滝」や「西行」という噺がございます。 |