ねえねえ知ってた? 平成十九年一月

平成19年1月24日(水)

 今日は、勤務先からの帰り、立ち寄るところがあって、知らない道を歩いていました。途中で、どう行ったらいいかわからなくなり、近くにおられた女性に「○○商店街へは、どう行けばいいですか?」と聞きましたら、「ここをまっすぐ行ったらねえ、イヤでもそこに着きますわ。」という典型的な大阪のおばちゃんの答え。「イヤでも」てねえ。別にワタクシ「刑務所」に行く道を聞いてるんとちゃうねんけど・・とツッコミを入れたくなる会話。いいですねえ、大阪人は。時々、日本語の使い方をわざと間違えて笑いを取ろうとするこの精神!帽子をちょっと斜めにかぶる感じの洒落っ気ですね。たとえば、医者から「自律神経失調症」と言われたオッチャン。「ワテの自律神経、いま出張してまんねん。」「そら、えらいこっちゃ。電報打って、すぐに呼び戻さんとあかんがな。」
 また、9月18日の不老具では「パロディことわざ」をご紹介しましたね。ちょっとひねった表現を使うことで、人間関係の潤滑油になるなら良いのですが、日本語の使い方を試験や面接で間違うと、困るケースもございます。10月3日の不老具では、一目惚れの相手に「ボクは君と出会った瞬間、『ここで会ったが百年目』だと思ったよ。」と告白して振られるお兄ちゃんが登場していましたね。そういう失敗をしないよう、今日は「間違い易い表現」について、勉強いたしましたの。

 公務員試験に、「的を得た質問」という表現は正しいか?」という問題が出されることがあります。実は、私も最近まで誤解していたのですが、この場合の「まと」は、「的」ではなく、「当」の字を使うのですね。ですから、正確な日本語で表現するなら「当を得る」或いは「的を射る」と言います。
 また、何かの役を頼まれた時、断ろうとして「私には役不足ですから・・」と言ったら笑われます。「その役目が不満なのか?傲慢な奴!」と誤解されますからね。では、どう言えばいいのでしょう。「私では、役者不足ですから・・」と言えば、正解。頼む側が「あなたには、役不足でしょうが、この仕事を引き受けていただけますか?」と言う分には問題ありません。
 もうひとつ、間違えやすい例を・・「よーし、汚名挽回するぞ==!」と張り切っている方、いませんか?そのまま、読み過ごしてしまった方、かなり危ないですねえ。「もしかして、名誉挽回とちゃうん?」と疑問に思われた方、正解です。もし、汚名を使うなら「汚名返上」ですね。かくいうワタクシも、サラッと聞き流してしまいそうですが、汚名を二度も着せられるのはゴメンですからね。「汚名返上・・汚名返上・・」と日頃から唱えておきましょう。
 それでは、他にも間違えやすい表現を、以下にいくつかご紹介いたします。

ケンケンガクガクという表現、これも聞き流してしまいがちですね。おそらく、喧々囂々(けんけんごうごう)と侃々諤々(かんかんがくがく)がゴッチャになって、まかり通っているケースかと思われます。ちなみに、「侃々諤々」は、活発に論議が交わされるが、理性や秩序はちゃんと保たれている状態。対して、「喧々囂々」は、それぞれが言いたい放題で、理性は吹き飛び、会議は混乱の極みという状態。前向きに話し合っているか?今にもケンカが始まるか?・・微妙に違うのですね。
 さて次は、うっかり言ってしまうけれども、実は文法上、間違った表現の「とんでもございません」と「滅相もございません」。正しい表現はこちらです。


とんでもございません(誤)−>とんでもないことです。或いは、とんでもない。(正)
滅相もございません(誤)−>滅相もないことです。或いは、滅相な。(正)

「とんでもない」は、それで単独の形容詞であり、「とんでも+ない」ではありません。「みっともございません」、「こころもとございません」、「はしたございません」と言わないのと同じで、「とんでもございません」は間違った使い方です。 「とんでもない」も「滅相もない」も、「あり得ない」という意味で使われていますが、滅相は元々は仏教用語で、四相のひとつ。すなわち、生相(この世に生ずる)、住相(持続して形をもつ)、異相(変化してゆく)、滅相(消え去って滅びる)の四相で、物事の無常の姿を表しています。すべての物事に滅相はある、というところから、「滅相もない」=あり得ないと言われるようになったという説があります。また「ものごとが滅して行くことなどは有ってはならない」というような意味合いが語源となったという説もあります。(解説はこちらのHPより)諸説入り乱れていますが、ともかく、「滅相もございません」と言うなど「滅相もないこと」 どうぞ、お気を付けくださいませ。

 では、本日の最後に、「いいえ、滅相な」という台詞の出てくる上方落語「お文さん」のご紹介を・・


平成19年1月15日(月)

 先日、年賀状の代わりとして、「賀正」と書いた自作のスケッチブックを友人が持ってきてくれました。もう10年以上のおつき合いになりますが、彼女に絵の才能があるのを知ったのは最近のこと。ハガキよりひと周り大きなサイズの画用紙の一枚一枚に、椿、露草、紫陽花、山百合、すみれ、蓮、紫、柳、合歓、ムクゲ、岩ツツジ・・・万葉集で歌われている花々が描かれています。また、カモや鶴のかわいいこと・・若い頃から生け花など、花とはご縁の深い彼女。今度は手に鉛筆を持って、花と向き合う日々。一本一本の線に花への愛情を感じます。丁寧な筆運びの作品の数々に深く心打たれましたので、今日は感謝を込めて、スケッチブックにあった「万葉の花」について綴ることに致しましょう。
 まずは、つゆ草。夏の早朝,朝露にぬれながら花を咲かせるので、露草(ツユクサ)と呼ばれていますが、当時は月草や鴨頭草(つきくさ)と呼ばれていたのですね。つゆ草の頁には、次の和歌が絵の横に添えられていました。

   朝咲き 夕は消ぬる月草の
        消ぬべき恋もわれはするかも
朝、花が開いても夕方には萎んでしまう露草のように、消え果ててしまいそうな切ない恋をしているよ


 次は「朝顔」。と言っても、万葉の時代には、朝顔は「朝に咲く美しい花」という意味で、当時はキキョウムクゲのことを指していたとか。現在の朝顔は、平安時代に薬用として中国から渡来したものなので、万葉の頃にはなかったのですね。ムクゲの絵と共に、次のような和歌がありました。
   臥(こ)いまろび 恋ひは死ぬとも いちしろく
          色には出でじ 朝顔の花
    
伏し悶え、恋死することはあっても、あなたに焦がれる心を顔色に出すようなことはいたしません。朝顔の花のようには・・
 万葉集には花だけでなく、生き物を題材にした歌も載っているのですね。こんな歌もかわいい鴨の絵と共にありました。
     みづとりの鴨の羽色の春山の
        おぼつかなくも思ほゆるかも
鴨の羽色をしている春山がぼーっとしているように、あなたのお気持ちをはっきり掴めずもどかしく思います
   

高校時代は、古文・漢文大嫌い、物理の問題を解いている方が楽しかったワタクシでしたが、この歳になり、言葉の達人や絵心ある友人・・感性豊かな方々の刺激を受けて、50前の手習い。有名な文学作品を読み出したり、万葉集の解説書を紐解いたり、新たな境地を開拓していただいております。
 今日は「万葉の花」(中西進・保育社)という本を読んでいたのですが、
古代人における自然は、今日の我々における自然とよほど違っていたように思われる。それは一言でいって、彼らの生命とことばと自然とが、ほとんどひとつのものとして捉えられていたからである。
・・人間と自然との区別はない・・自然の生命と交響しつつ生きていたのが万葉びとであり、そのことばが万葉の歌であった。
・・と前書きにあります。万葉びとは、花を単に花と見ず、可憐な乙女、死者、人の心の動き・・・など、様々なものになぞらえて詠んでいるのですね。目から入る色や形を超えたものを受け取って、花を心から愛でていたことがわかります。ちなみに桜は、愛らしい少女のイメージとか・・もう、サンサンてるよをそこに重ね合わせて観ることはできません。ウウッ・・
 桜と言えば、昨年の6月、サクラの木々を主人公にした落語を自分で演じてみた直後、不思議な体験をしたことがあるんですよ。もうすっかり桜の花は散り、葉が生い茂っていた頃でした。夕方、公園で息子とサッカーボールのけり合いをしていましたら、息子の蹴ったボールが私の真上にあった桜の枝にバサッと当ったのです。すると
         「乱暴なお子さんですなあ。」
とおじいさんのような物言いの声・・振り返っても誰もいません。「もしかして・・・今のは・・・サ・ク・ラ・の・木???」心の中に響いてくる感じで伝わってきた桜の精の思い・・最初は「木のせい、いや、気のせいよ。」と疑っていましたが、昔どこかで「桜の精は髭の生えたおじいさん」という話を聞いたことがあったのを思い出し、「きっと、そうなんだ〜〜」と納得した次第。ワタクシに木や花の声が聞こえたのは、後にも先にもこの時限りですが、そうやって、子どもたちが遊ぶ様子を見守ってくれているんだと思うと、何だか安心してしまいました。
 万葉びとの心を探る旅は始まったばかり。和歌を創るところまでは無理でも、花を眺める眼差しが彼らのそれに近づかんことを願いながら、今日の不老具を閉じたいと思います。

宜しければ、「万葉の花通信」というHPで、他の花々もご覧下さいませ。目の保養になれば幸いです。

平成19年1月5日(金)

 皆さまは、どんな初夢をご覧になりましたか?現代では、元旦の夜から2日の朝方や、2日の夜から3日の朝方の夢を指しますが、昔は旧暦でしたので、節分の夜から立春の朝にかけて見るのが初夢でした。良い夢を見るには七福神や宝船の絵を枕の下に敷いて寝ると良いとか。
 ということで、今年は、2日に家族全員の分を年賀状イラスト集より印刷し「枕の下に敷くのよ。」と配りましたが、どうも結果は???特に、お姑さんとワタクシ「何やら見たような気はするのだけれど、さっぱり想い出せない。」という症状で意見が一致。嫁姑ともに、健忘症のようです。旧暦の初夢に期待することに致しましょう。(2日の朝の夢なら、なぜか中学時代の友人ばかりが登場!何を意味しているのでしょう?)夢占いのページはこちら
 それにしても、お正月はいろいろな慣習がありますねえ。門松を左右一対飾るようになったのは江戸時代からのこと。古代は、年神さまのよりしろとして榊や樫などの常緑樹だったのが、平安時代より「神待つ木」ということで松が使われるようになったとか。
 トップページの絵※には、注連縄(しめなわ)をくぐるウリ坊が登場していますが、注連縄は神聖な場所の内と外とを分ける結界を創る目的で飾られています。横一本や丸い注連縄だけではなく、全国には実に様々な形の注連縄があるのでビックリ。こちらのページに写真が載っています。お正月にちなんだ様々な縁起物や飾り物について関心のあられる方は、こちらのHPにてどうぞ。なかなかおもしろかったですよ。


※1月15日まで使っていたイラストはこちら。
   「サンサンさん、何してますのん?」
   「ウチのウリ坊にしめ縄くぐりを教えてますの。」
   「ほお、イノシシも曲芸を覚えますか?」
   「ハイ、ぼたんと呼ばれるだけあって、穴をくぐるのは得意です。」

 さて、昨日は大阪天満宮にお参りしてきました。今年は我が家に受験生はおりませんが、歩いて十数分ほどのところにある最も身近な神社。お節料理が脂肪に姿を変えないためにも、ウオーキング方々毎年お参りしています。天神橋を渡ると、そこは北区。嫁入り前の私が5年ほど住んでいた懐かしい土地。天神橋筋商店街は、冬の時代を支えてくれた場所でもあります。
     「この店には傷心の思いで入ったのよね。」
       「あのおじさん、とうとう店をたたんだんだ・・」
もう忘れていた痛みがかすかに蘇ってきます。一生懸命洋服を選んでくださったおじさんの顔は鮮やかに浮かんできます。ついつい今の幸せな日々を減点法で見てしまう時もありますが、当時に比べれば心に感じる暖かさは天と地の差・・そう思えば、若い頃の苦労は買ってでもせよ!というのは、当を得たアドバイスかも?と思ってしまいます。感傷的な気分とお正月気分の入り交じったウオーキングタイム。往復で5キロメートルほど歩いたでしょうか。
 そうそう、おとといは行列が出来ていてあきらめたお神籤。引いて参りました!結果を知りたい?ジャジャーーーン。こちらをクリックしてください。そう、"凶"が出たんですねえ。(ちなみに神道での凶に関する考え方はこちら。ですから、どうぞご安心を・・)でも、今を遡ること20年ほど前、大吉が2カ所で続けて出た年は苦難の年でしたからねえ。ワタクシ、おみくじの吉凶にはあまりこだわっていないのです。それよりも、添えられている言葉に自分へのメッセージをいつも感じるのです。そのメッセージが大切な時は、2回続けて同じものを引いたりしますし、とても気の合う方と一緒に引いた時には「同じ心の友と語るがごとし」なんてピッタリのメッセージが書かれていましたもの。今年はというと・・
         他人の偽りの言葉により 自分の誠心も通じないが、
           今は、我慢して時節を待つがよい。
私の人生の中では、中学時代から始まって、こういう事態が何度かありましたから、今更驚きはしませんが、ほんと「偽りの言葉」をためらい無く吐く人っていますよね。そういう時には、相手をどうこう変えることは出来ませんから、自分のするべき仕事に淡々と取り組むのみ。そうやって、時間を耐えている内に、誤解が解けてゆくケースが多かったので、「偽りの言葉」も恐れなくなりました。
 私が卒業論文に選んだテーマは"フーリエ変換"という数学的な手法でしたが、この計算式には「対象の真の姿を測るには、相手が持つ要素と同じものを自分が持っていなければいけない。つまり、無限の種類のものさしを持って対象を観なければ、正しく観たことにはならないのだ。」という教訓が含まれています。ですから、私は「本当にわかった!」とゴールを定めないよう自分に戒めています。理解できた部分に関しては十分に喜ぶにしても、いつも「まだ、わからない。」と悩む部分、「まだ、本当にわかったとは自分に言わせない。」という厳しさを持っていなければならないと考えています。いろいろな知識はほとんど忘れてしまいましたが、これだけは今も心に定着している最大の教訓。
 ですから、真実を理解し語るということは、それほどに難しいものなのだと思います。何をどう語るかということは、その人の持つ物差しの多寡や精神生活が、即、反映されますからね。私たちは、その心の中の物差しを増やすために、いろいろな経験を積みながら、人生を歩んでいるのだと思うのです。
 振り返れば、耐えること多き人生行路。特に他の方が発する言葉をどう受け止めるか?は誰にも与えられる修行課題ですね。でも「待てば海路の日和あり」いつの間にやら極楽トンボのような毎日を送れるようになりました。その最大の要因は「笑いはなぜ大切か?」にも書きましたが、「心の省エネ」に気づいたことでしょうか。相手は故意であるかないかに関わらず、「心のエネルギー」を奪いにかかっているんですね。けれども、樽の底にズドーンと穴を開けられたかのように、心のエネルギーが流れ出るままにしておく手はありません。速やかに、栓をするのみ。つまり、コブタちゃんの絵のBからAに変えるわけですね。
 「偽りの言葉」と言えば、暴言によるイジメもそれに当たるでしょう。何も、命やお金を奪うだけが犯罪行為ではありません。「他人の心のエネルギーを奪う言動も又、立派な犯罪行為である」という認識が世間に広まって欲しいものだと強く願っています。そういう観点から「イジメる側にも学ぶ権利はある」などと宣う教師は言語道断。安倍首相の英断は評価に値すると思います。昔は「イジメ」と言っても発覚すれば厳しく指導されていました。今は、大人たちが責任逃れのために「偽りの言葉」でもみ消そうとしますから、イジメられた側、子どもを殺された方々の心の傷は如何ほどのものでしょう。ほとんどのご家庭は為すすべもなく沈黙するのみ。勇気あるご家族が、こちらの報道のように、文部科学省に手紙を書かれる。それでも根本的な解決にはならないのではないでしょうか?「淡々と時間を耐える」だけではなく、放っておいて被害が広がるのなら、愛と勇気を持って是正することも必要。拉致被害者の方々の声も、最初は政府の「偽りの言葉」によってもみ消されていました。けれども多くの方々が目を向けることによって、北朝鮮の包囲網を狭めることができました。
 同様に、他人のお子さんのイジメも他人事と思わず、社会問題として皆が問題意識を持っていかねばならないと思います。私自身、ゆとり教育に憤り、新聞投稿などを通して「ゆとり是正」を訴えてきました。今度は「イジメをウヤムヤに処理する体制」が教育界に蔓延しているとは・・私憤は心のエネルギーを減らしますが、公憤・義憤を感じる心だけは失ってはいけないと思います。「いい教師もおられるだろうが、今の教育界のあり方はおかしいよ!」とひとりひとりが気付くところから、全ては始まってゆくのだと思います。松井秀喜選手は安倍内閣メールマガジンで、他の有識者の方々も新聞などで緊急メッセージを発している背景には、想像を絶する事態が、全国の学校で起きているということなのです。これを私たちの小さい頃の「イジメ」と同じレベルに考えていては間違いなのです。これだけ盛大にお正月を祝って、あちこちで「良い年をお迎えください」という言葉が交わされているのに、全国で自殺や陰湿なイジメが相次ぐのは悲しい。今年こそ、本当に言葉通り「良い年」にしたいものです。ひとりひとりの心の力を最大限に発揮し、そして皆で協力し合って「凶」を「吉」に変えてゆきましょう!


平成19年1月1日(月)

皆さま、明けましておめでとうございます。おそらく私の年賀状が着くのは、3日以降になるかと思われますので、この場をお借りして新年のご挨拶を申し上げたいと思います。旧年中は、ホームページを恐る恐る開設した私に、ひとかたならぬ応援を頂戴いたしまして、本当にありがとうございました。このHPをご訪問くださる皆さまが、今年も笑って過ごせるよう、努力精進いたします。実は、大晦日を目前にしてようやく沸いてきたアイデアというのは、以下のような小咄でしたが、「うんうん唸った割には、出来が悪い」とか、「まあ、頑張った甲斐あって、3回読み返してようやくオチがわかった」とか、お屠蘇を傾けながら、好きなように料理していただけたらと思います。
本年もどうぞヨロシクお願い申し上げます。